チョコレートとシャンパン

その日岬は、ふと思いついてシャンパンと、上等なチョコレートを買った。
2月14日。
日本には、好きな人にチョコを渡す文化があったなあと思いながら。

フランスではバレンタインに女性が男性にチョコレートを贈ったり、愛を告白したり、
という風習はないが、愛し合う二人で祝う日になっている。
『岬くん、バレンタインの日はどうしてんの?』
数日前、翼からだしぬけにこんな電話がかかってきた。
思いつきで行動しがちな翼に、いい加減慣れてはいるものの、この時はさすがの岬も
返事に困った。
『特に予定ないなら、俺、パリに行くから、いつものカフェで、そうだなー…3時に
待ち合わせようよ。』
「うん…いいけど…どしたの?」
『好きな人に会いに行くのに、理由なんてなきゃいけない?』
二人は、いわゆる不倫関係で、岬もそれなりに悩んだり戸惑ったりしているのだが、
当の翼が万事こんな調子で、全く悪びれたところがないので、今のぬるま湯のような関係に、
一応は身を委ねている。
翼は、大きな子供なのだ。
欲しいと思ったものは、なんでも手に入れないと気が済まない。
そうして岬は、そんな翼だからこそどうしようもなく惹かれるのだ。

時計を見ると、2時45分。
待ち合わせ場所のカフェまで歩いて10分弱。
待ち合わせには、たいがい岬が先についている。翼はいつも、少し遅れて来る。
いつもの席に座りながら眺める町並みは、美しかった。
翼を待っている間に見る景色は、いつも美しい。
「岬くん。」
聴き慣れた声に岬が振り向くと、目の前に大きな、赤い薔薇の花束が迫ってきた。
「驚いた?」
花束が目の前から退けられると、そこには案の定、翼がにやにやしながら立っていた。
「どうしたの?花束なんて…。」
「フランスでは、愛する相手に花束を贈るのが一般的って聴いたから。」
「…また…こんな、目立つことして…。」
岬は眉をひそめ、小さな声で翼をたしなめた。
「大丈夫だよ。俺、サングラスかけてるし、ヨーロッパ人から見たら、アジア人なんて
皆一緒に見えるだろうし…それに…」
翼はぐるりと辺りを見回すと、続けた。
「この街では、そんなに目立つことじゃないんじゃない?」
岬が呆れて絶句していると、カフェのギャルソンがグラスに入ったシャンパンを
二つ持ってきた。
「あれ?岬くん、頼んだの?」
「ううん…君の分はまだ−−…ああ、あれのせいかなあ。」
岬が少し困惑したように、フランス語で書かれた貼り紙を指した。
「何?なんて書いてあるの?」
「うーん…本日はバレンタインにつき、恋人同士で御来店の方にはシャンパンを
サービスさせていただきます…だって…。」
それを聞くと翼はとても嬉しそうに笑い、グラスをかちん、と鳴らした。
「俺たち、この街の公認じゃん。」
翼があまりにも嬉しそうに言うので、岬もつられて笑った。

「岬くんは、可愛くないなあ〜。」
岬の部屋へ入り、我がもの顔でソファにどっかりと座った翼は拗ねた口調で言った。
「…悪かったね。嫌なら、帰れば?」
「ほらまたそういうこと言う〜。さっき、花束、全然喜ばなかっただろ。」
「…嬉しかったよ…。だから、ほら、これは僕から。」
そう言って、岬は今日買っておいた、美しい包み紙にくるまれたチョコレートを
シャンパンと一緒にテーブルに置いた。
「え!?もしかして、これ、バレンタインだから!?」
翼が驚いた。
「そうだよ。可笑しい?」
「可笑しくない!嬉しいよ!どうしたの!?こんなことしてくれるの、俺たちが
こういう関係になってから、はじめてじゃない!?」
「好きな人に贈り物するのに、理由がなきゃいけない?」
翼が予想以上に驚いたのが嬉しいのか、岬はくすくすと笑いながら、翼の横に座った。
「ねえ岬くん。」
「なに?」
「食べさせて。」
「は?」
翼が、いつもの余裕たっぷりの笑顔のまま何も言おうとしないので、仕方なしに岬は
ひと粒手に取ると、包みを取り、翼の口にもっていった。
「いただきます。」
そう言うと、翼はかぷりと、チョコレートだけでなく、それを持った岬の指先まで食べた。
「ちょっと、なに人の指まで食べてるんだよっ。」
翼の口から指を引っこ抜くと、溶けたチョコレートが指先についていた。
翼は、ゆっくりとその手をもう一度自分の口へ持っていき、溶けたチョコレートを舌で絡め取った。
温かく、柔らかい、触れ慣れた舌が指先を這う。
指先からじんわりと心地よい痺れが走り、岬の頭はぼんやりとして、何も考えられなくなる。
「岬くんにも、あげるね。」
翼はチョコレートをひと粒くわえると、岬の口もとへ運んだ。
翼の唇が触れる時、岬は少し唇を開いた。
甘く濃厚なチョコレートの香りが鼻腔を包む。
翼の唇からそっとチョコレートを受取ると、それが合図だったかのように翼は岬をソファに押し倒した。
「ちょっと、待って。一口だけシャンパン飲ませて。」
実際、岬は喉がからからだったのだ。
シャンパンの香り、ほろ苦い風味が喉を過ぎる頃、岬は、いつも感じる、一抹の罪悪感を持った。



けれどそれは、その後すぐ、濃厚なチョコレートに侵された翼の舌によって、掻き消された。

いつものように。

Fin.


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