CHAPTER 5  Auf Wiedersehen


「今夜も、月はあんまり見えねぇな…。」
温室の裏のベンチにどっかりと腰を掛け、空を仰ぎながらゲンゾーは独りごちた。
あれからミサキは、この温室に来ない。
何年も咲かなかった薔薇が咲いているのに。
「天使が羽を取り戻したって考えれば、寂しくない、か。」
自分を励ますように背中を叩くと、ゲンゾーは勢い良く立ち上がり、部屋へと
戻って行った。

「ミサキ、あれからゲンゾーとちゃんと話した?」
「話してないよ。話すことないし。」
図書室の背の高い窓の前、ミサキは本に落とした視線をちらとも動かさずに、
ツバサの問いに応えた。
「…ちゃんと、話しなよ。」
「君には、関係ないって言っただろう?」
この言葉を聞くと、ツバサはミサキから本を取り上げた。
「関係無くない!良くないよ!こういうの!」

ゲンゾーと言い争ってからのミサキは、明らかにそれまでとは違っていた。
近ごろはいつもボーっとしていて、食堂で皿を落として割る、部屋でインクの瓶を倒す、
などの普段なら絶対あり得ない失敗をしょっちゅうしていた。
見兼ねたミスギから注意を受けるほどに、それは顕著だった。
今日も授業中ボーっとしていたために教師の質問に答えられず、叱られ、レポートを
課せられていた。
また、相変わらず柔らかな美しい微笑みをたたえているものの、時々小さな溜息を
ついているのをツバサは見過ごしてはいなかった。

「本、返してよ。僕、明日までにレポート書かなきゃいけないんだ。
 君も、聞いてただろ?」
ミサキはにっこりと笑顔を作った。
「今君は、もっとやらなきゃいけないことがある。」
「あのね、ツバサ…」
大きな溜息をつき、ミサキが何か語ろうとした時、ミスギの声がした。
「ミサキ…どこに…って、ああ、こんな所にいたんだね。ちょっと、いいかい?」
「あ、ごめん。探した?何?」
「うん。面会の方なんだけど…。校長室に…。」
「校長室に?誰?」
「うん…。僕も、聞かされていないんだけど。」
「ミスギも?まあ、いいや。ありがと。すぐ行くよ。」
ミサキは唖然としているツバサから本を取り戻すと、急ぎ足で出ていった。

「ミサキと、何話していたんだい?」
ミスギは、委員長らしく、いつもきちんとクラスメイトに気を配っていて、
ジャストなタイミングで声を掛けてくれる。
「……なんでも、ないよ…。」
「なんでもないって顔、してないよ。」
ミスギはクスクスと笑いながら言った。
なんでもかんでも顔に出てしまう自分のことを忌々しいと、ツバサは初めて思った。
「ミサキはさ、どうしてなんでも曖昧にするんだろう。」
「ミサキが?そう?」
「うん。いつも大事なところできれいに笑って、自分の気持ちを隠すんだ。」
「こんな短期間で、よくそこまでミサキのこと見抜いたね。」
ミスギのこの言葉には「よっぽど彼が好きなんだね」というニュアンスが
含まれていたので、ツバサは恥ずかしくなり少し赤くなった。
ミスギはそんなツバサの肩を優しくたたきながら言った。
「彼はね、色々複雑なんだよ。彼が、気持ちの全部を出してくれるのを、待とうよ。」

校長室のドアを開けるとまず、自分の父が目についた。
ああ、面会人って父さんだったんだ…と思った次の瞬間、ミサキは固まった。
父の横に、ひとりの婦人が座っていた。
とても上品で、美しくて…自分にそっくりな女性だった。
「お…母さん…?」
反射的に、口をついて出てしまった。
校長は小さく頷き、婦人の背中を一回優しくたたくと、気を使い、隣の部屋へ行った。
校長がいなくなると、婦人ははらはらと涙をこぼした。
「ごめんなさいね、ごめんなさいね…。」
ミサキは慌てて自分のハンカチを差し出した。
幼い自分を捨てた、母。
しかし、こうして対面してみると、不思議と恨みの念は湧いて来ない。
湧いてくるのはただ、郷愁ばかり。

「なあ…。父さんお前に、パリに移住しようかと思うって話、したよな?
 あれ、本格化しそうなんだ。」
「うん。覚えてるよ。僕、行くよ、一緒に。」
「一緒にって…。お前、学校はどうするんだ?」
「パリの学校に転校するよ。僕、父さんと…。」
「いいんだ、気を使わなくて。母さんが…母さんはドイツのハンブルグに今
 住んでるんだが…お前さえ良ければ、引き取りたいと言ってくれたから…。
 お前はドイツを去る必要はないんだよ…。」

ミサキの中で、何かが割れるような音がした。

「え…?」
「あなたさえ良ければ、これからは休暇ごとにうちへ帰って来て。今は夫と娘と
 暮らしているけれど…皆、あなたを歓迎するわ。あなたが好きよ。もう一度、
 私の息子になってはくれないかしら?むしが良すぎるけれど…。あなたと家族に
 なりたいって、ずっと思ってたわ。」
そう話しながらも母は涙をはらはらと流している。
ミサキは何が何やら分からず、混乱した。
「ごめんなさい。あんまりにも急で…。少し、考えさせてください。」
ペコリとお辞儀し、慌てて校長室を出ていこうとした。
「1週間以内に、結論を出してくれ…。」
父の、寂し気な声が背中で響いていた。

ミサキはその夜、温室へ行った。ゲンゾーは待っていてくれた。
そして、自分が今まで瞬間凍結してきた気持ちを一気に溶かしたかのように、
ゲンゾーの胸で泣いた。

無関心という箱の中に母恋しさを隠して、ずっと意地を張っていた。
寂しくなんかない、会いたくなんかない、と。
それを認めたら、後には心地よさだけが残った。

それから3回目の朝、ツバサはまたもやミサ開始時刻のギリギリまで寝てしまった。
「おい!ツバサ!急げって!」いつものごとく、イシザキにせき立てられる。
「ツバサ!今朝は大ニュースがあったんだぜ!ミサキ、パリ行っちまうんだと!!」
マツヤマの言葉を聞き、ツバサは顔を洗う必要もないくらい、頭から冷や水を
掛けられた気になった。
「パリ…?パリってフランスの…?」
「俺は、それ以外にパリって所は知らねえな。それより、急げって!」
当然ながらミサキはとっくに聖堂へ行っていて、そこにはいなかった。

いつも退屈だとは思っていたが、今日ほどミサの時間を長いと感じたことはなかった。
少し離れた位置にいるミサキは、いつもと変わらぬ様子で聖書に視線を落としている。
その姿は本当に天使のように清らかで美しかった。

「ミサキ!俺、聞いていないよ!」
ミサが終わった瞬間、ツバサはミサキに駆け寄り、腕を強く掴んで抗議した。
周りの生徒たちが、その剣幕に驚いている。
「うん、今日、皆に言ったから…。明日、出発なんだ。」
「明日!?そんな急に!」
「父さんの仕事の都合なんだ。」ミサキは困ったように微笑んでいる。
「おい。腕、離してやれ。周りの奴も驚いてるぞ。とりあえず、目立たないところで…」
ゲンゾーがツバサの腕を取った。
「うるさい!ミサキの馬鹿!じゃあ…俺も、俺も学校辞める!パリ行く!」
それだけ叫ぶと、ツバサはどこかへ走って行ってしまった。
ミサキは困ったような顔をしてゲンゾーを見上げると、彼は少し笑った。
「大方、温室かなんかだろ。行ってやれよ。俺なら、いいから。」

「この薔薇、やっと咲いてくれたんだ。」
ツバサはミサキの声を聞くと急いで涙を拭い、振り向いた。
「これね、僕が転入してきてから2年半、全然咲いてくれなかったんだ。
 今年やっと咲いてくれたのに、お別れになっちゃった。ツバサ、これから
 面倒みてやってね?」
「そんなこと、ゲンゾーに頼めよ。」ツバサは拗ねたように口を尖らせた。
「ゲンゾーは、僕がいなくなったら温室なんて来ないよ。1年以上、ほぼ毎日一緒に
 来てたのに一つも花の名前覚えてくれなかったんだから。」
いつものようにミサキはニコニコと笑っているが、その笑顔には今までと違って
曇りがなかった。

「僕はね、君が羨ましかった。泣きたい時に泣いて、腹が立った時には怒る。
 楽しい時には思いきり笑って、嬉しい時には全身で喜ぶ。僕はいつも『ふり』だったから。」
「…なんだよそれ。お別れの挨拶のつもり?」
ツバサは今にも泣きそうな、怒り出しそうな顔をしている。
「あのね、ツバサ。…母さんが、訪ねてきてくれたんだ。そして、僕と家族になりたいって
 言ってくれたんだよ。僕、すごく嬉しかったんだ。泣いちゃうくらいにね。」
それを聞くと、ツバサは弾かれたように顔を上げた。
「でも僕、父さんについてパリへ行くよ。やっぱり僕は…父さんが大事だから。
 大好きだから。傍にいたいから。僕が学校に残って…父さんがパリ行っちゃったら、
 会いたい時にすぐ会えないだろ?そういうの、ダメかな?」
ツバサは首を大きく横に振った。
「ダメじゃない。全然、ダメじゃない。でも、寂しい。」
「大丈夫。また会えるよ。手紙も書くよ。」
そう言って、ミサキはツバサを慈しむように抱き締めた。
ツバサは溜め込んでいた涙を、しゃくりあげるほど一気に流した。

「ミサキ!この本持ってけよ。」「手紙書けよ!」
ミサキの出発当日、駅では皆が口々に別れを惜しむ声や激励の言葉を投げかけた。
ミサキは満面の笑顔で、それらひとつひとつに丁寧に反応した。
ツバサはその様子を少し離れた所で見ている。
「まだ拗ねてんのか?」ゲンゾーがポン、とツバサの頭を叩いて通り過ぎて行った。
「ミサキ。泣きたくなったらいつでもこの胸は貸してやるぜ。」
ゲンゾーの軽口に、ミサキは笑って彼を軽くぶった。
汽笛が鳴る。出発の時刻だ。ミサキはツバサの方を見たが、相変わらず離れた所にいる。
列車が動き出した。
「ツバサ!本当に色々ありがとう!また、絶対会おうね!」
ミサキはツバサに向かって大きく手を振った。ツバサは少しだけ笑うと、俯いてしまった。

「おい。あんな別れ方でいいのかよ?お前、ミサキが好きだったんだろ?」
ゲンゾーがツバサの横の壁に、腕を組んだ姿勢でもたれた。
「……うるさい。俺、学校なんて辞める。ミサキがいないならつまんない。」
俯いたままのツバサの顔を覗き込むと、目に一杯涙を溜めていた。
「あのなぁ…。お前は学校に残って、もっと沢山のことを勉強しなくちゃいかん。」
「いいもん。学校なんか行かなくたって勉強できるし。」
それを聞いてゲンゾーは大きく溜息をつくと、ツバサの肩を抱いた。
「じゃあな、友達はどうする?イシザキやマツヤマ、ミスギや…俺や。お前まで
 いなくなったら皆、もっと寂しいぞ?」
「……ゲンゾーとは、友達になった覚えはない。」
「じゃあ、今からなればいいさ。俺には、それだけの価値はあるぞ。」
そう、笑って言ったゲンゾーを、ツバサは殴る真似をした。



お母さんへ。

学校は、小鳥の籠のようです。
先日、一羽の小鳥が出て行ってしまいました。
けれど、相変わらず籠の中は穏やかです。
籠の中から外の世界を見るのも悪くないなあと、最近は思っています。
仲間にも恵まれています。

少し窮屈だけれど、少なくとも俺にとっては快適です。





Fin.




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