高貴なしみ

空気は、無色透明で味も匂いもない。
小学校で、そう習った。
けれど、あれは必ずしも真実ではない。
空気に、色や味や匂い、なお且つ感触まで付け加えることのできる人間が、この世の中にはいるのだ。

岬太郎。やつを知るほとんどの人間は、こう言う。
「彼は、天使のようだ」
確かに、太陽のもとで微笑み、ボールを蹴り、チームメイトとじゃれ合う姿は天使そのものである。
汚れを知らない。汚そうとするにも、あまりに美しすぎる、そう思っていた。
しかし、岬は俺の腕をとったのだ。ワインの香りむせ返る、西日の当たる部屋で。
岬を抱きながら俺は、自分が酔っていくのを感じたが、あれは、蒸発したワインの香りなんかのせいじゃない。
岬自身から発せられた香気に酔ったのだ。
あの時、部屋中がワイン色に染まっていた。それが俺には、ワインの色ではなく、岬の溜息の色に感じられた。
あれ以来、赤ワインを飲む度に岬のしっとりとした肌、生温い溜息が鮮やかに蘇り、部屋中に香気が立ち篭め、俺を息苦しくさせる。だが、不思議と心地よいのだ。

岬と不埒な行為に耽る時、部屋は色付き、むせるほどに香り、空気はもったりと、程よい重みを持つ。
先日、岬がモンブランを買ってきたが、あのクリームとあの時の空気の感触は似ていると思った。

「君と抱き合ってる時、世界中に、もう、二人きりしかいないのじゃないかと思ってしまう時がある。」
火照った身体が冷めきらぬ内に、岬が静かに微笑みながら言った。
嫌か、と訊くと、岬はふるふると首を振り、恐くはないんだ、不思議だねと小さく笑う。
その様子は天使のようで、気付けば、さっきまであんなに色付き、匂いの立ち篭めていた部屋も、いつもの無機質な様相を取り戻していた。
「お前は、自分には俺しかいない、と、俺に錯覚させるぞ。」
そう言いながら岬を抱き締めると、やつの身体にはまだ、先ほどの不埒な空気が残っている。
ほんの少しの残り香も、俺の身体は敏感に感じとり、簡単に熱くなるのだ。
「お前が、欲しい」そう語る俺の瞳に気付いた岬は、すこし驚いたようだったが、すぐに俺を受け入れるように微笑んだ。
すると、また部屋はみるみる色付いていくのだ。俺は、この瞬間が好きだった。
一体、何人の人間が、空気が色付いていく瞬間を見ることができるのだろう。

岬を抱いたら、天使を汚してしまうのじゃないかと思っていた。が、俺の考えはあさはかだった。
不埒な行為に耽るほどに岬は美しく、気高くなっていく。初めてそれを見た時は驚きとともに感動を覚えた。
こんな人間もいるのか、と。
今も、俺の腕の中の岬は髪が乱れ、肌は赤く染まり、この上なく淫らな姿であるにも関わらず、神々しいほどに美しい。
岬から発せられる甘い溜息で空気はいよいよ密度を増し、また、俺は、心地よい息苦しさを覚える。

俺は、選ばれた、幸福な男なのだ。
その思いが俺を有頂天にする。

岬は、自分の身体に痕をつけられることを嫌う。
いつか、岬の首筋にキスの痕をつけたら、すごく怒った。その痕は赤紫色で、いかにもいやらしい色だった。
確かに、普段の天使のような岬にはそぐわない色で、申し訳ないことをしたなあと思い、それ以来はつけていない。
しかし、ぐったりと横たわる岬の太ももに、俺の指の痕がついてしまっていた。
「悪い、指の痕、つけちまった。」
紫色に染まる、小さな染みを触りながら俺は詫びた。
岬は身体を起こし、ベッドの上で座り、その痕を見つめた。

「紫…。高貴なしみ、だね。悪くないかもね。」

岬は、痣を愛おしそうに撫でながら、そう笑った。

これから俺は、紫色したカクテルを飲む度に、岬の『高貴なしみ』を思い出すことになるのだろう。

Fin.


山田詠美先生へのオマージュ第二段です。
源岬で挑戦。岬君の可愛らしさではなく、不埒な気高さを描いてみました。
これは、全く同じ題名の話が、山田詠美著『色彩の息子』(新潮文庫)の中にあり、今回お借りしました。
もちろん、お話は全然違うものです。
是非読んでみて下さい。あなたの感性が磨かれること間違いなしです。

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