窓を開けた時


カーテンの端に、指をかけて、わずかな隙間から明けてゆく空を覗きみ見る。
立ち込めた朝靄が、木々をやわらかく包みこんでいた。
翼が振り返ると、ベッドの中では、まだ、岬は深い眠りの中にいる。
素肌にかけられた毛布が、おだやかなリズムで上下していた。
こんなに無防備な彼を、ひとりで眺めることが来る日が来るなど予想もできなかった。

あの頃の翼は幼かった。
憧れてやまなかったブラジルと、
師であり兄であったロベルトが、突然翼から遠ざかっていってしまった。
その喪失感で、膝を抱えていた毎日。
もうひとつの別れが迫っていることを知りながら、うまく意識を向けられずにいた。
「岬が、きょう行っちゃうんだ」
そう告げられらときでさえ、心はどこかぼんやりとしたままで、
身体だけがバス停に向かって走り出していた。
黒いマジックでサッカーボールに書いた言葉は、今にして思えば、あまりに大きな夢。
でも、あの時の翼の頭に浮かんだのは、あの言葉だけだった。
自分の夢が叶うとすれば、必ず彼がそばにいる。
自分のすべてが出せるときが来るとすれば、必ず彼がそばにいる。
なんの根拠もなくても、そう信じて疑いなどなかった。

バス停に、たどりついたときには、もうバスは走り出していて、
ただ身体が動くままにボールを蹴り上げていた。力の限りに。
窓からボールを受け取った岬は、ありきたりの別れの言葉を残して、
遠く道の向こうへ消えていった。
バスが吐き出した煙が、澄んだ風にかきけされ、はじめて別れの実感が押し寄せた。
短い期間であったにもかかわらず、片翼のように翼のそばにいた岬。
ロベルトが翼の目標だったとすれば、岬は翼の一部だった。
古びたバスが引き裂いていった、自分の一部。
あの痛みを思い出すと、いまでもうずくまりそうになる。
あの日から、どこかで、翼は失くした一部を探し続けていた。
便りが届くかもしれない郵便受け・・・・
彼の噂が聞けるかもしれない数々の大会・・・・
「翼くん!」と、明るく自分を呼ぶ声・・・・・

サッカーが好きで好きでたまらなかった二人は、よく早朝の練習に出かけた。
母親に起こされ、ベッドから飛び出して窓の外を見ると、
ボールを足元にしたがえた岬が、手を振って微笑んでいたこともよくあった。
岬がこの町を去っていってからも、翼はときどき早朝に窓を開けた。
あのときのように、彼が自分を待っててくれているような気がして・・・・・。
しかし、何度窓を開けても、ただ季節の風が舞い込んでくるだけだった。

「・・・・翼くん・・・早いね」
目覚めた岬が、毛布の中から、まだ眠そうな目でこちらを見ていた。
「ごめん。起こしちゃったね」
「いいよ・・・・それより、窓を開けてくれるかな」
「寒くない?」
「うん。外の空気が吸いたいんだ」
翼は、岬に言われたとおり、窓を開ける。
レースのカーテンをふんわりとふくらませて、朝の風が部屋に舞い込む。
心地よさそうに目を閉じた岬の前髪が、さらさらと揺れる。
翼も、その風に吹かれながら、大きく息を吸い込んだ。
あの頃は、何度窓を開けても、その姿を見ることができなかったけれど、
今は手を伸ばせば触れられる距離に、求め続けた自分の一部がある。
「岬くん・・・・」
「なに?」
「・・・・・・おかえり」
二人が再会してから、もうずいぶんになる。
こうして、一緒に迎えた朝も数え切れない。
「どうしたの?いまごろ、おかえりだなんて・・・・」
岬が不思議そうな微笑を浮かべると、翼はベッドの端に腰掛け、
そのまま、朝陽を受けて白い光を放つ目の前の身体を抱きしめた。
「おかえり、岬くん」
岬は、抱きしめられたまま、くすくすと笑った。
「ただいま、翼くん。もう、どこにも行かないよ。ここは、ぼくの居場所だからね」
レースのカーテンが、風をはらんで、白い翼のようにひるがえる。
あの日、心をちぎられた少年は、すでに片翼を取り戻していた。
開け放たれた窓の外には、どこまでも朝の空が続いていて、
その空の向こうには、目指す夢があって、どこまでも、飛んでゆけそうな気がした。


Fin.





GC劇場のなんなんさまからいただきました−−−!
いつもほんとにお世話になりっぱなしですみません。
私が、「遊佐未森さんの「窓を開けた時」はGCにぴったりの歌だなあと長年思ってました。」
ということを言ったら、GCの名手、なんなん様がこんな素敵なSSを…。感激。
元になった歌は、本当に透明感ある可愛らしい歌なので、これをきっかけに一度是非聴いて下さい。
かなーり昔の歌ですが。

それにしても、この嫌味のない、かつ洗練された文章…ほんとに素晴らしいの一言です。
最後のシーンでは、慈愛に満ちた岬くんの美しい表情が目の前に浮かぶようではありませんか。
こんな素晴らしい文章をお書きになる方とお友達でほんとに良かった…と心から思いました。


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