迷子 (第三回)

僕自身にとっても、彼女にとっても意外な展開であるにも関わらず、桃子さんは
取り乱す様子もなく、僕の顔をただじっと見つめている。
その瞳は、僕を哀れんでいるようだった。
そして、そこには戸惑っている僕が映っていた。
それを見た僕は、増々どうしたらいいかわからなくて、何かを壊したくて、
めちゃくちゃに桃子さんにキスした。
すると彼女は僕を、ぎゅう、と抱きしめた。
その時、かつて年上の女の人に言われたことを思い出した。
「あなたみたいな子はね、大人の女から見ると、とても魅力的に見えるのよ。」と。

ほらね、父さん、やっぱり、この人も、ふつうの「女」だよ。
きれいな顔して、根っこに毒を持っているんだ。
その毒で、男の人の心を支配しようとする。
だけど、残念ながら、僕にはその毒は通用しない。解毒剤を持ってるから。

僕は、とても乱暴なやり方で桃子さんを抱いた。
桃子さんは、時おり溜息をもらしていたが、わざとらしい声をたてたりすることはなかった。

終わった後、こんなにすっきりしないセックスをしたのは初めてだった。
むしろ、却って何かを背負い込んだような気がしていた。
「ねえ太郎君、あなた、寂しいのね?」
桃子さんは背を向けたまま整わない呼吸の中、ぽつん、とそう言った。

大人の女なんか、大嫌いだ。
いつだって、自分だけがなんでも分かったような顔をして僕たちに教えたがる。
けれど、その時の桃子さんの言葉は、僕の心にちくりと刺さった。
くだらないと鼻であしらうことができなかった。
「じゃ、僕、サッカーの試合見たいから帰ります。」
さっさと服を着て、できるだけ素っ気無く言って、僕は桃子さんの部屋を出た。

僕は、何を壊したかったのだろうか。

部屋に戻ると、テレビのサッカー中継をつけて、できる限りそれに集中するよう努めた。
後半が始まる頃、お隣から何か美味しそうな匂いがしてきた。
中継が終わると、父さんが帰ってきた。
「お隣からいい匂いしてたぞ。今日もお裾分けあると嬉しいなあ。」
とても呑気な声で、そう言った。
あるわけないじゃん、と僕は心の中で思っていた。

しかし、しばらくすると部屋のチャイムが鳴り、父さんが出てみると、桃子さんが
立っていた。
「シチュー、作り過ぎちゃって。わりと美味しくできたし、お二人でどうぞ。」
「本当にいつもすみませんね。けど、本当にどれもこれも美味しくて…」
いつもと変わらぬ二人の当たり障りのない会話を聞いて、僕の苛立ちは頂点に
達していた。
僕ひとり、ばかみたいじゃないか。

窓際に、ちいちゃな僕をだっこしたお母さんと、お父さんの写真がある。
家族写真なんてその一枚だけだけど、すっかり埃を被っている。

桃子さんが帰ってから、呑気な父さんは嬉しそうにシチューの入った鍋を持ってくる。
「太郎、これいただこうか。いい匂いだなあ。」
「いらないよ、そんなの。」
「太郎?」
「そんなもの、いらない!」
さすがの父さんも、少し表情を引き締めた。

窓際の写真が、とっても可哀想に映る。

「父さんは、母さんのことなんか忘れちゃったんだ!その内きっと僕のことも
 いらなくなって…!」
ばしん!という音が耳の奥に響いたかと思うと、頬がじんじんと熱くなった。
父さんが、僕をひっぱたいたのだ。
記憶にある限り、そんなことをされたことは今まで一度だってなかった。
「太郎、我が儘を言うのは、いい。父さんを責めるのも、いい。けど、
 卑屈になるのだけは、やめろ。」
父さんは色々な思いを押し殺したような声で、ぶたれた僕よりもずっとずっと辛そうな、
痛そうな顔をして言った。

そして僕は、おそらく赤ん坊の頃以来だろう、父さんの前で、声を出してわんわんと泣いた。
悲しいのか嬉しいのか、悔しいのか誇らしいのか、とにかく説明しきれない思いが
どんどん溢れて、目から涙となって落ちているようだった。
「いっぱい、いっぱい我慢してきたんだな。」
父さんは、そう言ってぼくをぎゅうっと抱きしめた。

僕は駆け足で大人になんて、なってなかった。
僕はお父さんを守ってなんかいなかった。
僕は、ずっと迷子になっていたのだ。
自分だけがおいてけぼりになって、傷付いているような気になっていた。
今日、父さんが僕を探して抱きしめてくれた。
僕はもう、寂しい迷子なんかじゃない。

あした、桃子さんに謝ろう。そう思った。

学校にいても、僕はすっかり上の空で、桃子さんになんて謝ろうかと頭を悩ませていた。
大急ぎで家に帰ると、珍しく父さんが居た。
アトリエ代わりにしている部屋の窓際で、僕に背中を向けてキャンバスに絵を描いている。
「あれ、父さん。出掛けないの?」
「うん…。太郎、桃子さん、お昼前に引っ越ししたよ。」
僕は、がっつーんと後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。
「…なんで?」
「さあ。理由は知らないよ。太郎にって、手紙預かったよ。」
真っ白な封筒を開けると、桃子さんの部屋で嗅いだのと同じ香りがふわっと鼻を覆った。
それはちっともお化粧臭くなんかなかった。
ほんとは僕は、最初からそのことに気付いていた。

そう、はじめっから媚びの匂いなんて、なかったんだ。
そこにあったのは、自由に生きる僕ら親子に対する憧れと、父さんへの純粋な愛情の香りだった。
桃子さんは、僕たちみたいになりたかったのだろうか。
手紙の文面は、とても短かった。

太郎くん、色々ごめんね。あと、ありがとう。お父さんを、大切に。

たった、それだけ。
桃子さん、ずるいよ。僕は、あなたに謝れていない。そして、もう二度と謝れない。

人を傷つけて、自分も傷つけて、行き場のない思いを抱えながら、そうして大人になっていく。
そんな当たり前のことを、僕は今日、身をもって知った。

たくさんの痛い思いをしながら、僕は、ゆっくり大人になっていく。


Fin.



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