天使じゃなくていい
「きみ、だあれ?」
びしょびしょの身体を意に介することなく、少年は大きな澄んだ瞳を
向けて、人なつこい笑顔を浮かべた。
その日、『彼』はいつもどおり、ひとりぼっちでサッカーをしている少年を見ていた。
まるでボールが足にくっついているかのように器用に、上手に操る様を
見ているのが好きだった。
しかし、はずみでボールが川に落ちてしまった時、少年は少し逡巡した後、
ボールを追いかけて川に飛び込んだ。
流れは結構強かった。
少年はようようボールまでたどりついたものの、小さな身体が川の流れに
逆らえるはずもなく、立とうとしては流され、何かに掴まろうとしては
流されていた。
もう、あの、ボールと戯れる姿を見ることはできないのかなあ、それを
残念に思った『彼』は、手出しをしてしまった。
本当は、人の運命というものを観察することしかしてはいけないのに。
『彼』によって陸に引き上げられた少年は、目の前に立つ美しい青年を見て
少し驚いたような顔をしていたが、「きみ、だあれ?」と話し掛けた。
「僕?そうだね、天使だよ。」
青年の答えを疑う風もなく、少年はふーん、と言った。
青年は、少年の身体や頭を、タオルで丁寧に拭いてやった。
「あのね、俺、翼って言うの。助けてくれてありがとう。お兄さん、
サッカーって知ってる?できる?」
「知ってるよ。」
君をいつも見ていたからね、と青年は心の中で付け加えた。
「じゃあさ、ちょっと相手してよ。ちょっとでいいんだ。」
いやだ、と言ってやろうかと思ったが、少年の哀願するような瞳に
その冗談は少し酷いかと思い、やめた。
「いいよ。…君みたいに、上手にできるか分からないけど。」
「ほんと!?わあい!俺の所にボール返してくれたらいいからね!」
少年は、『彼』が蹴り易いところへ上手にボールを送ってくれた。
「君は、ほんとうに上手なんだね。」
「お兄さんも、すごく上手だよ!初めてなのに!…楽しい?」
「うん、楽しいよ、とても。」
『彼』の優しい笑顔を見て、少年は嬉しそうに笑った。
二人で、ずっとボールを蹴り合った。パスをしながら走ったりもした。
「翼君、もう日が暮れるよ。お母さんが心配するから、帰ろう。」
少年は、サッカーボールを両手で大事そうに持ち、まだ帰りたくない、という
目線を『彼』に送ってきた。
「おうちまで、送ってあげるから。」
「明日も…明日も、一緒にサッカーしてくれる?」
「わかった、わかったから。帰ろう。」
それを聞くと、少年の表情はぱっと明るくなり、「うん」と頷いた。
「ええ!?川に!?」
『彼』から一部始終を聞いた少年の母親は当然、驚き、息子を厳しく叱った。
「じゃあ、僕は、これで…」
『彼』が立ち去ろうとした時、母親に慌てて引き止められた。
「あの!ごめんなさい、お礼も申し上げず…この子、ちょっと周りが見えなく
なるものだから…本当に、ありがとうございます。」
「いいえ。子供は皆、そんなものです。あ、そうだ。僕、明日も息子さんと
遊ぶ約束しましたよ。」
「明日…?翼、そんな約束したの?」
「…うん。だから俺、引っ越さないもん。」
少年は、拗ねたように口を尖らせ、顔をそむけた。
「引っ越し…ですか?」
「そうなんです。ほら、ごたごたしているでしょう?」
言われて、少し玄関先を見ると、確かに引っ越し用ダンボールが山積みに
なっていた。
少年がどこへ行こうと、『彼』には羽があるから関係ないのだけれど、
引っ越し先でも出会うというのは『人間』であれば不自然なことだから
もう姿を見せることはできないのだな、と『彼』は思った。
「そうかあ、残念だな、翼君。また、いつかね。」
そう言って『彼』は去ろうとした。その時、足下に温かな衝撃が当たった。
「いやだいやだいやだいやだい!!せっかくサッカーしてくれる友達
見つけたのに!俺、絶対、絶対ここに残る!!」
『彼』の右足にしがみついて、少年は泣きじゃくっている。
人間をずっと観察してきた『彼』にとって、人間の激しい感情には慣れていたが
それが自分に向けられるのは初めての事だった。
人に姿を見せたのが初めてなのだから、それも当然の事だった。
「ひとりの人間に執着してはいけない」
それが、天使の禁忌なのだ。
『彼』は今、その禁忌を破ってしまった。
「この子の傍にいたい、この子をもっと笑顔にしてあげたい。」
心の中で、そう、思ってしまった。
「本気か?」
「はい。僕、人間の子供になりたいです。僕は、天使失格です。」
「だから、人間に姿を見せてはいけないと言ったのに…。」
「はい。わかっています。でも僕は、彼に出会ってしまったのです。
そして僕は、今だかつてないくらい幸福なのです。」
「もともとお前は、天使には向いていなかったのかもしれないね。
いいよ、勝手にしなさい。ただし…わかってるね?羽は…」
「はい、わかってます。切り落とします。」
「痛いぞ?」
「はい…耐えてみせます。」
天使が人間になるには、羽を自分で切り落とさなくてはならない。
そしてその痛みは、想像を絶するのだという。
『彼』は自分の翼にゆっくりとナイフを入れる。激痛が走り、気が遠くなる。
歯を食いしばり、一気に切り落とすと、鮮血がたらたらと背中をつたい、
切り落とされた美しい翼に滴り落ちる。
気を失いそうになりながら、もう片方の翼も切り落とす。
これは、幸福な痛みなのだと自分に言い聞かせながら。
『彼』の目の前には今、血に染まった、かつて天使界の中でも一、二を
争うと言われてた美しかった翼がふたつ、横たわっている。
「…これでお前は人間になれるわけだが…お前は、孤独に旅を続けている男の
子供として生まれ変わる。出生に関することは、周囲の人間の記憶に刻んで
おこう。ただし、例の少年にすぐ会えるとは、限らない。自分で探しなさい。
…人とは、運命には逆らえない生き物だからね。」
「はい。ありがとうございます。必ず、見つけだしてみせます。」
「では、今からお前の天使としての記憶を消すが、何か言っておきたいことは?」
「何も。何もありません。これからのことしか見えません。」
「よろしい。では…。出会えることを、祈っているよ。」
『彼』は額の前にかざされた手の温かさを感じながら、固く、目を閉じた。
「みさきくん!」
耳もとを抜けた風に、なんとなく懐かしさを感じて立ち尽くしていた岬に、
笑顔の翼がとびついてきた。
「何ボーっとしてるの?早くサッカーやろうよ!」
「うん、そうだね。」
そう、柔らかく微笑む岬を見て、今度は翼が惚けたような表情をした。
「どしたの?つばさくん?」
「あ、ううん…。いつも思うんだけどさ、俺と岬君って、どこかで会ったことあるっけ?」
「?なんで?ないよ。」
「そうだよね…。うん、気にしないで。なんかそんな気がしただけ。」
「へんなの。」
翼と岬は、顔を見合わせてクスリと笑った。
岬の背中には、肩甲骨の辺りに薄い傷跡があるのだが、それが失った翼の跡だとは、
誰も知る由がない。