ぼくは勉強ができない




「あいかわらず、きみの母音の発音は鼻に抜けすぎるな。
 それに、HOTELはオテルじゃなくてホテルだ。
 常識的な単語なんだから、それくらい気をつけたまえ」

英語の長文を1ページ分読み終えると、先生がなかば忌々しそうにぼくを一瞥した。
日本に戻ってきて一ヶ月あまり。
鼻と口の両方から同時に息を抜いたり、綴りの“h”を読み落としてしまうクセが
どうしても抜けないままでいる。・・・しかたないよ。 
ぼくは英語より先にフランス語を学ぶ必要があったわけだし、その国に3年もいたんだもの。

しかしだ。仮にも語学の教師たるもの、そこで、
「ちょうどいい機会だ、ヨーロッパの言語の特徴について比較してみよう」
なんて、授業に広がりをもたせる余裕があってもよさそうなもんじゃないか。
いくら受験生だからって、それくらいの脱線は許されると思うんだけどな。

まあ・・・先生が面白くない気持ちもわかる。
ぼくのフレンチ訛りの英語のほうが、先生の平たいカタカナ英語よりも
はるかにカッコいいってのは、クラスの誰もが認めてることだから。
ぼくが音読の最中にはいつも、みんながうっとりと聞きほれてくれて、
なんだか名曲を奏でてる演奏家みたいな気分になるよ。
日本の学校じゃ「外国帰り」の人間に特別席が与えられるものなんだね。
生徒たちからは羨望されるけど、語学教師からは疎んじられる・・・・。 
まあ、いいか。ぼくは先生の面子を侵害するつもりはまったくないし、
こんなことで目の敵にされて、大事な内申書に傷がついても困る。
「すみません、直すように心がけます」
帰国子女に寛容になれない英語教師に、従順な生徒の微笑みを返して、ぼくは席についた。

そして、過去完了進行形についての授業が始まったわけだけど・・・
ぼくはもう一度、心のなかでため息をつく。
なんだ? カコカンリョウシンコウケイって。
どうしてこんなわけのわかんない日本語で、外国語を説明してかかろうとするんだろう。
なんでも無駄に難しくしてしまうのって、日本人の悪い癖だと思うよ。
人と人をつなぐ言葉って、もっとシンプルなものなのに。

みんな一度、他の国の人たちとサッカーしてみるといいんじゃないかな。
言葉なんて通じなくたって、ボールがその代わりを果たしてくれる。
カコカンリョウシンコウケイを知らなくたって、ちゃんとゲームは成立するし、
不思議と相手チームの話の内容までわかったりするんだ。
違う言葉同士で、ケンカもできるし。そう、若林くんみたいにさ。

若林くんにはドイツ語がすごくよく似合ってる。
彼がチームメイトに怒鳴ったり、大声で指示を出したりしてるのを聞くとぞくぞくするよ。
あの国の言葉には、闘いの血をかきたてるような響きがあるのかもしれない。
あの声が、濁音をいっぱいふくんだ堅牢な言葉を発するとき、
それは彼をますます強く猛々しく見せて、ぼくは鳥肌がたつ。 

そして、愛を語るのにふさわしい色気を持つのは、また別の言葉だ。
愛し合うとき・・・時折、ぼくが漏らす"oui"や"non"に、彼はたまらなくなるそうだ。
鳥の羽毛で耳の中をくすぐられるみたいだ、って。
たしかに、あの芳醇なワインにむせるような空気の中での囁きには、
ちょっぴりしゃがれたフランス語がふさわしい。
それは、前の席の女の子がこれみよがしに髪を揺らして漂わせる、
安っぽいシャンプーの香りとは、全く異なる甘さの空間に放たれるもの。
からだじゅうを濃厚なボルドーに絡めとられた挙句に、降伏として生まれる言葉・・・

・・・と、不謹慎な回想を始めたところで、ぼくの机の上をめがけて、
ぽんとメモがとんできた。
ななめ2つ前の翼くんが小さく手を振っている。中を開くと、
「今日、ウチによってって。
 新しいサッカーのビデオ、きっと岬くんも気にいると思うよ」
って、召集令状か、これは。
顔をあげると、断わられるなんてみじんも考えてない「当然来るよね」って
目がこっちを見てる。
しかたなく微笑んで、指で丸をつくって了解のサインをだすと、
嬉しそうなVサインが返ってきた。
・・・変わらないよね、翼くん。
きみのキャラクターって、この国では貴重だと思うよ。ほんとに。

「いまは若林くんしか見えないかもしれないけど、
 でも、もし、つらくなったり泣きたくなったりしたら、
 おれのことを思いだしてよね」

Jr.ユースの祝賀パーティを抜け出した席で、きみがぼくに言った言葉。
ごめんね、翼くん。
いまのぼくには、つらくなったり泣きたくなったりってほどの出来事はないんだ。 
多少の憂うことはあってもね。
それに、もしもそういう時になっても、きみを思いだせるかどうか・・・
ごめん、やっぱり約束できないや。

でもね・・・この先きみがブラジルに渡って、サッカーだけじゃない、
あの国の色も温度もその精神も、すべてを持ち帰ってきたら。
きみのその強い視線が、さらに極彩色を帯びるなら。
・・・・・何かが変わることもありうるかもね。
だって、きみにはそういう素質がありそうだもの。
曖昧なものを許さずに、まるごと変えてしまう才能が。
この国の空気は、あまりに色も匂いもなさすぎて、ぼくにはちょっと物足りない。
いつの日かそれに退屈しきったぼくの前で、きみの燃えるような原色が
色濃く放たれたなら・・・
きみの色に染められてしまうことも、起こりうるかもしれないね。


「英語ってのはな、きみらが国際人となるための大事な道具なんだ。
 受験のためだけだと思わずに、しっかり取り組むんだぞ。」
『試験によくでる英文法』のテキストをふりかざしながら、先生がまくしたてている。
なんだかおかしくて、ぼくは鼻先で笑ってしまう。



恋人と愛を語るにふさわしい響きを持つのは、どこの国の言葉だろうって考えたり、
ブラジル人の情熱を描くのには、何色の絵の具を選ぼうかって悩んだり。
人種によって違う骨格や身体能力の差を計算して、戦略を練ってみたり。
そんなことのほうが、ぼくにとってはうんと大切で、うんと国際的なことに思えるよ。
少なくとも、過去完了進行形という日本語を理解したり、
子音のhをちゃんと発音するよう努力することよりも。
そんな些細で意味のないお勉強に時間を費やすには、
ぼくの放課後は貴重すぎるし忙しすぎる。



ねえ、先生も一度、恋かサッカーのどちらかを試してみたらどうかな。
そのフラットで棒読みな英語、きっと変わるんじゃないかと思うよ。



FIN


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