迷子 (第1回)




あれは小学校に上がる頃のことだったろうか。
夜、ボソボソと話をする声が隣の部屋から聞こえてきて目が覚めてしまった僕は、
隣の大人達に気付かれないように、襖をそうっと細く開けた。
ちょうど目の前に、父さんの背中があったのだけれど、大きくて安心できる
いつもの父さんの背中じゃなくて、それは、なんだかちっちゃくて、所在
なげに見えた。
父さんの正面には叔父さんと叔母さんが座っていた。
僕は彼らがあまり好きではなかった。

「だからね一郎さん、これから小学校なんだし、太郎ちゃんを今までどおり
 全国連れて歩くなんて、可哀想よ。」
「そうだぞ。友達だって出来んだろう。悪いことは言わん、うちに…」
「いえ。太郎は、今までどおり僕が見ます。」
「もう…。少しは太郎ちゃんの身にも…」
叔父さんや叔母さんに声を掛けられる度、父さんの背中はどんどん小ちゃく
なっていく。
俯いて、固く拳を握って、耐えていた。

「父さんを、虐めるな!」
気付くと僕は襖を開けていて、父さんの背中に抱きついた。
「僕は、父さんといたいんだ!帰れ!父さんは、僕が守るんだ!」
「太郎…」
叔母さんは突然の僕の登場に少し驚いた後、大きな溜息をついた。
「太郎ちゃん、ひとつの学校にいないと、お友達だって出来ないのよ。」
「父さんさえいてくれたら、友達なんていらない!」
「もう…。誰に似たのかしらね、強情になって。」
「すみません。」
父さんは、増々小ちゃくなって謝っていた。
僕は、力一杯父さんの背中を抱き締めていた。
離れるもんか。
父さんは、僕がいないとダメなんだから。
僕が傍にいないと寂しくて死んでしまうかもしれないんだから。

その日から僕は、駆け足で大人になることにした。
父さんのために。



あれから10年経つ。
僕は相変わらず父さんの傍に居てあげたくて、とうとうフランスまで来た。

このところ、僕んちの食卓は賑やかだ。
いつもより、おかずが一品多い。
「太郎、美味しいだろう?お隣の桃子さん、料理上手いだろう?こんな外国で
 お前の手料理以外にこんなうまい日本食が食えるなんてなあ。」
父さんは小さな目をもっと細めて嬉しそうに言う。
「うん、そうだね、とっても美味しいな。」
僕は、父さんを喜ばせたくて無理して言う。
本当は、ちっとも美味しくない。
お化粧臭いんだ。
父さんにはこの匂い、分からないんだろうか。
料理で男を釣ろうなんて、今時どうかしてる。
子供の僕だって、その手口が古いってことぐらい分かる。
お化粧臭いその料理を食べると、一緒に女の媚まで飲み込んでしまったようで
僕はいつも、吐き気を覚える。
いっそ、吐いてしまえたら楽なのに。

桃子さんがお隣に引っ越して来たのは10日くらい前のこと。
パリの、こんな汚いアパルトマンに比較的若くてきれいな日本人女性が一人で
住むなんて、僕は正直びっくりした。
確かに、割と治安の良い地域ではあったけれど。
33歳という彼女は、肌が格段に美しいせいか、もう少し若く見えた。
すらりと長身で、胸元まで伸びたまっすぐな黒髪と切れ長の大きな瞳が印象的な
なかなかの美人だった。
この近くのカフェで働くつもりだと言っていた。
「嬉しいです。こんな近くに日本の方がいらっしゃるなんて。」
「男所帯で愛想はありませんが、日本語が話したかったら遠慮なくいらして下さい。」
父さんは、恥ずかしそうに、でも嬉しそうにそう言った。
「まあ、本当?じゃあ、時々お言葉に甘えてしまおうかしら。太郎くん、よろしくね。」
その言葉に、僕は転校生活で培った営業スマイルで返した。

その次の日からだった。

「つい、作り過ぎてしまって。」
そう言いながら桃子さんが僕の家におかずを一品、持ってくるようになったのは。
しらじらしいなあと僕は思うのだけれど、父さんは嬉しそうに受け取る。
「桔梗に、似ているなあ。」
ある日父さんは、僕と食事をしながら、桃子さんのことをそう言った。
確かに、見た目きれいなところは似ているかもね。
でも父さん、気をつけてよ。
桔梗の根っこには毒があるんだよ。



つづく