迷子(第二回)



僕は女の媚にむせっかえりそうになりながら生活しているというのに、
父さんはと言えば呑気なもので、口にこそ出さないけど、毎日、桃子さんの
来訪を楽しみにしていた。
お互い好感を持っているくせに、おかずの受け渡しの数分だけしか交流を
持たない男と女。
子供の僕から見たって、もどかしくて不自然だ。
「お隣の桃子さん、きっと父さんのことが好きなんだね。」
僕がそう何気ない調子で言った時、父さんは僕をぴしゃりと叱った。
「あて推量で、そんなことを言うものじゃない。桃子さんに失礼だ。」
僕はびっくりした。
父さんが僕を叱ったことに、じゃない。
どうやら本気で、桃子さんは自分に気があるとは思っていない父さんに、だ。
なんて鈍感で、純粋な人なんだろう。
桃子さんから発せられる全ての媚が、父さんには全然感じられないのだろうか。
いや、むしろ感じないようにしているのじゃないだろうか。
父さんは、桃子さんを「桔梗のようだ」と言った。
花のように、楚々として美しい、と。
桃子さんにはまるで、醜い「欲望」がないと思い込もうとしているのじゃないだろうか。
違うよ、父さん。
彼女、ふつうの「女」だと思うよ。

「ねえ、岬くん、聞いてる?」
放課後、あずみちゃんが僕をつつく。
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてて。なんの話だった?」
「もー、最近、こういうこと多いよ。大丈夫?疲れてるの?」
「ううん、なんでもないよ。ありがとう、優しいんだね。」
そう言ってにっこりと微笑むと、あずみちゃんの耳たぶがぼーっと赤くなった。
「女の子」は、とっても単純で、そして可愛い。
いつから、ずるくて計算高い「女」になっていくのだろうかと、あずみちゃんの
柔らかそうな耳たぶを見つめながら僕は考えていた。

その日、アパルトマンに戻ると、部屋の前で桃子さんに出会った。
桃子さんも今、買い物から帰ってきた様子で、両手一杯の荷物を抱えて、部屋の鍵を
開けるのに苦労していた。
「僕、荷物持ちますよ。」
「いいの、いいの。それより、この鍵でドア開けてくれない?」
可愛らしいキーホルダーも何もついていない、晒の鍵を受取ると、僕は言われるがまま
鍵を開け、ドアを開けた。
ありがとね、と言って桃子さんは入り、玄関にどっさりと荷物を置く。
「太郎くん、今、帰ってきたの?」
「はい。桃子さんは?今からお仕事?」
「ううん。今日は、お休み。マスターがサッカーの試合を見たいんだって。」
そう言えば、今日は夕方から好カードの試合があったなあと思い出した。
「お父さんは?」
とってもさり気ない口調で、桃子さんは訊ねた。
「父さんは、今日は仕事で遅くなるって。もしかしたら帰って来ないかもね。」
「そう。太郎くん、寂しいわね。」
「ううん。僕、慣れっこです。じゃ。」
「あ、太郎くん、急いでる?急いでないなら、おばさんとお茶してかない?」
にっこりと美しく笑う桃子さんには「おばさん」なんて呼称がちっとも似合わない。
「おばさん、って似合わないですよ。」
僕が笑うと、じゃ、おねえさんで。と言って桃子さんはアハハと笑っていた。

とてもシンプルで物の少ない部屋に、僕は少し好感を持った。
手作りしたのよーと言うアップルパイも、紅茶もとても美味しかった。
けど、「お母さんみたい」と言うには桃子さんには色気と媚びがありすぎる。
「桃子さんは、どうしてひとりでパリにいるんですか?」
僕は、常々疑問に思っていたことを口に出してみた。
人にはそれぞれ事情があるのだから、あれこれ詮索するべきじゃないってことも
わかっているけど、構うもんか。
この人は、僕と父さんの生活に土足で踏み込んでくるのだから。
「ふふ。聞きたい?太郎くんは賢そうだからほんとのこと言おうかな。あのね、私、
 逃げてるの。」
「……何か、悪いことしたの?」
僕が少し驚くと、桃子さんはけらけらと笑った。
「違う、違う。逃げてるって、警察とかマフィアからとかじゃなくて、夫から。安心して。」
「なあんだ。……旦那さんに、叩かれたりするの?」
「ううん、全然。彼はいわゆるエリート銀行マンでとても優しいの、表面上はね。」
「じゃ、どうして?」
「どうしてかな。なんかね、息苦しかったのね。お人形にされたみたいで。太郎くんも
 わかってると思うけど、日本って、『こうあるべき』みたいなのがすごいじゃない?
 そういうのが嫌で、フランスまで来たのに、結局そういう人を選んじゃった。」
「ふうん…。けど僕、『型』にはめられたことないから、よく分からないや、あなたの気持ち。」
そう、羨ましいなと言って、桃子さんは頬杖をついて窓の外を見た。
「…ねえ、桃子さんは、父さんのことが好きなの?」
突然核心をついた質問をされて、桃子さんは少し驚いたような顔をしていたが、すぐに
いつもの柔らかな微笑をたたえて、穏やかな声で言った。
「そうね、とっても素敵な人だと思うわ。」
「じゃ、どうしてそう言わないの?桃子さんくらいきれいなら、父さんも好きになるよ。」
「ありがとう。でも、言ってもどうにもならないでしょう。ほら、私、逃げてきたくせに
 こうやって、結婚指輪を外せないでいるんだから。」
全部、わかったような顔。

その瞬間、僕の中に凶暴な怒りに似た感情がうわっと湧き出て、何が何やらわからなくなった。
桃子さんの細い手首を掴むと、その場に押し倒していた。
僕は、女の人を、知らないわけじゃなかった。



つづく





TOP     BACK