あれ…また来てる。
次々に話し掛けてくる常連客を適当にあしらいながら、岬はオープンテラスの一番入り口に近い席に一人静かに座っている、体格の良い、身なりも割にきちんとした東洋人の男を目の端に捕らえた。
男はいつものように、一人で新聞を広げている、おそらくドイツ語であろう。
地元客向けの、決して上品とは言えないこのカフェに、その男はひどく不似合いに映る。
「いらっしゃい。御注文は?」
「ああ…。エスプレッソとクロックムシューを。」
男は、少しくらいのフランス語は話せるようである。
いつもと同じオーダー。
この男が週に1、2度顔を出すようになってから3ヶ月くらいが経っていたが、ただ一人しか居ないこの店のギャルソンである岬とは、このオーダーと、チェックの時ぐらいしか口をきいたことがなかった。
日系…?いつもドイツ語の新聞を読んでいるからドイツ人?
同じ東洋人のせいか、岬は男のことが気にかかっていた。

日本で中学を卒業し、絵描きの父についてやって来たパリ。
もう、8年になる。
5年前にふと入った、少し奥まったところにひっそりとあるこのカフェ。
決してメジャーにはなれないが、良い味のコーヒーと食事を出すこの店が、自分にはとても似合うような気がして通いつめる内、いつのまにかギャルソンとして働くようになり−−…すっかり、この店の看板娘ならぬ看板息子となっていた。
腕は良いが愛想が悪くて(本当はとても良い人なのに)損しがちなマスターに代わって、岬が笑顔を振りまく内に大勢の常連客−−…男性が多いのだが…−−ができ、彼等はなんとかして「岬の特別」になろうとしていた。
ノーマルな男でもそんな気にさせられる何かが、岬の笑顔にはあった。

実際、彼は美しいのである。

日本人特有の、なめらかですいつくようなキメの細かい肌。
柔らかそうな筋肉のついたしなやかな肢体。
茶色がかったクセのない髪、髪と同じ色をしたアーモンド型の瞳。
女性達からは「何故あなたはそんなに美しいの?」と羨望の眼差しを受けている。
が、もちろん、彼自身は自分の美しさなどには無頓着であった。
自分の笑顔には、人を蕩かすような魅力があるらしいということは知っていたけれど。

常連達が少し掃けたスキを見て、休憩の為、岬は裏口へ出た。
ワインの入っていた空き箱に腰掛け、メンソールを1本取り出し、ライターで火を付けようとした。
が、ガス切れか、ライターは空しくカチカチという音を立てた。
軽く舌打ちし、メンソールを箱に戻そうとした時、大きな陰に覆われ、見上げてみると、例の東洋人の男が立っていた。
「どうぞ」男はにこやかにマッチの箱を取り出した。
「どうも」岬もとびきりの笑顔で受け取った。
男の手を見ると、いつものように新聞を持っていたが、それは、日本語の物だった。
岬は嬉しくなった。パリへ来てから8年、ほとんど父親以外の日本人とは口をきいていなかった。
「あなた、日本人ですか?」日本語で話し掛けてみる。
「そうですよ。君も…?日系のフランス人かと。フランス語上手だから。」
「僕は、あなたを日系のドイツ人かと思っていました。」
「ドイツ暮らしが長いのでね…。日本語より達者かもしれません。」
「僕もですよ。」
まともに話したのはこれが初めてなのに、岬は不思議な居心地の良さを感じていた。
「よく、こんなちっぽけな店、見つけられましたね。地元の方じゃないのに。」
「フランスの友人に、『美人の店員がいる』って聞き付けましてね。男性なので、びっくりしました。」
「がっかりした?」
「いえ、美人には違いない。」
岬は笑った。男も笑った。
腕時計に目を落とすと、もう15分経っている。
店に戻らなくてはいけないが、このまま男と別れるのは名残惜しい気がした。
「あなた、お名前は?」
「ああ、失礼、若林です。君は−−…ミサキ…だよね?」
「もし良ければ、今夜お食事でもいかがですか?店は9時に閉まります。ここで待っててくれませんか?」
岬の突然の申し出に驚いたのか、若林は目を丸くしていたので、岬は途端に恥ずかしくなり「ご迷惑でなければ」と、付け加えた。
「迷惑だなんて。美人の誘いは、大歓迎ですよ。」
若林の笑顔を見て、岬は久しぶりにワクワクしている自分に気付いた。

この店で働き始めて4年。
閉店時間がこんなに楽しみだったことはなかった。

閉店後、大急ぎで着替えて裏口から出ると、若林は本当に来てくれていた。
「僕の、お気に入りの店でもいいですか?……あまり、きれいな所じゃないけど。」
「良かった。俺も、格式高い所は苦手です。」
こうして並んで歩いてみると、若林の体格の良さに改めて驚かされる。
岬自身、日本人男性としては小さい方ではないが、その岬より背は10数センチ高いだろうか。
肩幅もがっちりしていて、胸板もしっかりしている。
また、まじまじと顔を見てみると、随分と良い男で、きっと女性にすごくもてるんだろうなあと岬は思った。

岬のお気に入りだという、これまた小さな路地にある南仏料理の店に入った。
「本当は、南仏へ食べに行けたらいいんだけど」
「いや、うまいよ、本当に。」
若林は素晴らしい食べっぷりだった−−が、どことなく品があり、育ちの良さを感じさせた。
「若林−−−…くん、は、何してるの?」
「ああ…?仕事?ドイツでサッカーやってるよ。」
「へぇ。僕、日本で中学に居た頃やってたよ。結構、上手かったんだよ」
「俺は小学校卒業してからずっとドイツだからなあ」
「すごいねえ!!一人で!?」
「うーん。それ以外に何もできることないしな。」
「あれ…??ドイツで…ってことは、普段はフランスじゃないの!?」
「ん?んん…。まあ、な。」
「あきれた…!!あーんなちっぽけな店に、毎週わざわざドイツから!?」

「君に、惚れたからね。」
肘をついた姿勢でいたずらっぽく笑う若林を見て、岬はもう一度「あきれた…」と呟いた。
内心、それが本当ならいいのに、と思いながら。

「今夜、引き止めて良かったの?ドイツ帰るんじゃ…?」
「いや。今はシーズオフだから、急いで帰る必要は。」
「どこ泊まるの?」
「君さえ良ければ、君のうちへ。」
「えええ!?」
「冗談だよ」
また、ニヤリとしながら若林は言った。
「ホテルに泊まるさ。」

すっかり、若林のペースである。岬はドキドキさせられっぱなしだった。
「僕の部屋でも…いいよ…。」
岬は少し目を逸らし、頬を赤らめながら言った。
驚いたのか、若林は少し間をおいてから
「本当に…?知らんぞ…。」と言った。
「知らんぞ…って、何を?」
「何って−−…だから…俺は、君に惚れてるって言ったろ。だから…同じ部屋で一晩過ごすのは…」
「いやらしいことするぞってこと?」
「う…。まあ、そういうこと…だ…。」
「それ分って、僕の部屋に誘ってるんだけど?」
岬は、見上げるような視線で少し首を傾げながら言った。
テーブルに灯されたローソクの明かりのせいで、岬の大きな瞳が潤んでいるように見え、大層色っぽく感じられ−−若林はドキリとした。

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