黄昏れ

(ああ…、しまったな…)

全国大会で無事に優勝を果たした後、地元に帰った若林は久しぶりにのんびりと一人散歩に出た。
帰り道、ふと西の方角を見ると夕日が美しく、もうすぐこの地を離れるせいもあってか、少しセンチメンタルな気分で風景を見ていた。
前方に目を戻すと、河川敷に岬親子を見つけた。
特に気にせずそのまま近付くと、父親が岬の頭をポンポンと軽く叩き、少し俯き加減の岬は顔をぐい、と拭って顔を上げた。
どうやら、泣いていたようだ。
そして、若林と目が合ってしまったのだ。
それで、「ああ、しまった…」と思ったのである。
全国大会が終わったらこの地を離れる、と岬が以前言っていたことを、若林は思い出していた。
岬は、どういう表情をしたら良いか分からないといった風で、若林から少し目を逸らした。
「ああ、若林君だね。全国大会、よく頑張ったね。」
岬に容貌は似ていないが、醸し出す柔らかい空気が似ているなあと思いながら、若林は小さく、どうも、と言った。
「じゃあ、太郎、父さんは先に帰るから。夕飯時までには帰って来いよ。」
友達どうしゆっくり話をさせてやろうと気を利かせたつもりなのか、岬の父親は先にさっさと帰ってしまった。
しかし、この時、岬と若林は二人きりで河川敷で話し込むほどに親しいわけではなく、なんとなく気まずい空気が流れた。

「……変なとこ、見られちゃったな。」
そう言いながら岬は首を傾げ、若林を見上げながら曖昧に微笑んだ。
「お前でも、泣いたりするんだな。」
「え?」
「だってお前って、いつもへらへら笑ってるか、試合の時みたいに恐い顔してるかどっちかだろ。」
「へ……へらへらなんて、してるかなあ、僕。」
「いっつも笑ってるじゃねえか。」
「若林君は、いつも意地悪そうな顔してるよね。」
その言葉を聞くと、若林と岬は顔を見合わせて笑った。
近くの公園の時計を見ると、5時を回ったところだった。
「お前んち、すぐメシか?」
「え?いや、いつも7時くらいだけど…。」
「じゃ、ちょっと俺んち寄ってけよ。お前、猫とか犬とか好きだろ?」
以前、練習中にグランドに小さな猫が迷い込んだ時、岬がそれを嬉しそうに抱き上げ、話し掛けていたのを若林は覚えていたのだ。
若林の言葉を聞くと、岬は控えめだけれど嬉しそうに「うん」と言った。

「わあ!大きいねぇ!若林君ちの犬!わっ!くすぐったいよぅ!!」
ジョンはもともと人なつこい犬だが、大層気に入ったようで、しゃがみこんだ岬の顔をペロペロと愛おしそうに舐めていた。
岬は嬉しそうにはしゃいでいる。
「おい、ジョン、そいつは俺と違ってチビだからあんまりのっかるなよ。」
その言葉を聞くと、ジョンは岬の肩に掛けていた前足を降ろし、岬の顔をクンクンと嗅ぎ回している。
「このコ、若林君の言うことはちゃあんと聞くんだね。賢いなあ。お前、ご主人様が好きなんだね?」
岬に頭を撫でられるとジョンは、小さくワフッと返事のような声を出した。
「こいつ、もとは捨て犬だったんだぜ。それを俺が親に頼み込んで飼ったんだ。『俺が世話するから!』ってな。泣いたのは、今までであの時だけだ。」
「へぇ。若林君、泣いたりするんだぁ。」
岬はしゃがんだまま、ジョンの耳の後ろを撫でながら穏やかな声で言った。
長い睫毛だなぁ……そんなことを思いながらまじまじと岬を見てしまう自分に気付いて、若林は急に恥ずかしくなった。
岬と会ってから、おかしいのだ。
初めて見た時には女の子と本気で間違えた。
そして、いつもニコニコと柔らかな笑みを浮かべていることに疑問を感じ、いつの間にか視線で岬の姿を追うようになっていた。
目が合って微笑みかけられるとどうしたら良いか分からず、翼と心底楽しそうにじゃれ合う姿を見ると胸がちくりと痛んだ。
自分の中に固いしこりができ、それがどんどん成長し、岬を見る度、自分の中で窮屈になったそのしこりにつつかれるような感覚を覚えていた。
「お前…。引っ越し、もうすぐなのか?」
おそらく、さっきの岬の涙の理由はここにあるのだろう。
翼と離れ離れになるのが寂しいのであろう。彼等は、本当にお互いが「運命」と呼ぶべき存在であるから。
若林の言葉を聞いた岬は、少しの間の後、小さく頷いた。
「翼には、言ったのか?」
岬は無言でジョンを撫でながら首を振った。ジョンはうっとりとしている。
「…言えないよ…。」
小さな、小さな声だった。
翼は、ロベルトにおいていかれたことがよほどショックだったようで、あれ以来ほとんど家にふさぎ込んでいると聞いた。
確かに、岬までもうすぐ行ってしまうと聞いたら、もっと悲しむかもしれないなあと若林は思った。
「まあな、確かに今のあいつには酷すぎるかもしれんが…」
出発日くらい、教えてやったらどうだ?と言いかけると、岬の言葉に遮られた。
「違うよ。僕、君が思ってるより、もっと勝手なんだ。翼君が、僕が行っちゃうって聞いて、全然寂しがってくれなかったらどうしようって思ったんだ。僕ばっかり寂しくてさ。だったら言わないで行っちゃった方がいいって思ってる。…最低だろ?」
目を伏せ、ジョンを撫でる手を休めずに一気にそう言う岬を見て若林は、やるせない気持ちになった。
正直言って、若林に岬の複雑な気持ちは全く理解できない。
けれど、自分が思っていた以上に岬が色々なものを抱え込んでいることだけは分った。
たくさんの思いを抱え込んでいるのであろう、小さな背中を抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、ジョンに先を越されてしまった。
ついさっきまで撫でられてうっとりと眠ってしまいそうだったのに、おもむろに顔をあげると、岬の顔をひと舐めしたのである。
「なんだ?慰めてくれるつもりか?」
そう言いながら岬は、嬉しそうにジョンに抱きつき、若林の方を振り返ると「変なこと言ってごめんね。」と言った。
その顔は、いつもような明るい笑顔だった。

「別に、大丈夫だよ。」
若林に家まで送られる道すがら、岬は何度も恥ずかしそうにそう言った。
「そういうわけにいかねーよ。母さんに、『こんな可愛い子、ちゃんとおうちまで送ってあげるのよ。』って言いつけられたんだから。……俺の母さんは、ああ見えて怒ると恐いんだぞ。」
岬はそれを聞くと、声をたてて笑った。
そして、突然ふと立ち止まると若林の方を向き、若林の両手を持ち上げた。
「ゴクロウサマでした。」
大事そうに、両手で支えている。当然だが、岬の温もりを直に感じたのはこれが初めてだった。

若林は、自分の中のしこりが、その温もりによって溶け出していくのを感じた。
しこりの中に閉じ込められた気持ちが露になると、若林は初めて岬への想いに気付いた。
恋をしているのだ、と。
岬は若林の両手を大事そうに降ろした。
「じゃあ、本当にここまででいいから。ありがとう。楽しかった。」
若林に笑顔を向けたまま2、3歩後ろ向きに歩いた。
そして、もう一度、じゃあ、と言い残すと向き変え、走って行った。

俺も、ドイツへ行くんだ。プロになるまで帰らないつもりだ。
だから、お前にはもう会えないかもしれない。
だから、だから…。
俺は、お前が好きだった。

岬を呼び止めて、こう言いたかったけれど、できなかった。
どんどん小さくなる岬の背中を、ただ見つめていることしか出来なかった。

河川敷の上から西の方向を見ると、日が沈まんとしていた。
最後の力を振り絞るかのように真っ赤に輝き、辺り一面を薄紫色に染めていた。
若林は、それを、美しいなあと思った。

そして、この景色は絶対忘れたくないと、思った。

二人が互いの気持ちを確認し合うのは、もっと後のこととなる。

Fin.

◇◆番外編『ジョンの気持ち』も読んでみる◆◇

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